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Daisuke Bundo

Daisuke Bundo

分藤大翼
アフリカの熱帯雨林でBaka族の調査研究と記録映画の制作をおこなっています。
長野県松本市在住。

 

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「フォークのさじ」 愛媛県喜多郡

『しなのある白壁』
愛媛県喜多郡〈内子〉駅

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墨色の壁に白の格子模様。近づいてみると、格子縞は漆喰(しっくい)を盛り付けて造られている。こんもりとした白い漆喰は鏝(こて)で塗られるとき海鼠(なまこ)の形に似ていることから、このような壁は「海鼠壁」と呼ばれている。お食事処『りんすけ』の垣根の塀は、下から海鼠壁、白壁、瓦と積み上がっている。そして、その白壁の一角には「美しい景観建造物デザイン賞」と彫られたプレートが付けられている。町並みの保存・再生を促進している内子(うちこ)町から平成元年に与えられたものだ。


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『りんすけ』は町並みの美しさで脚光を浴びている内子の中心地、本町通りに面して建っている。城に似たつくりで一部が三階建てになっており、黒の瓦と白の壁が落ちついた雰囲気を醸し出している。この建物は、その風格に似つかわしく、昭和63年に建てられた当時は『魚林』という料亭のものだった。

現在のご主人は『魚林』を引き継ぐとともに、平成8年に同じ建物の一角で『りんすけ』を始めた。名前は『魚林』の創業者、宇都宮林助からとっている。林助さんは当代の啓之さんの曾祖父にあたる方だ。『魚林』は明治時代から百年以上も続く老舗料亭であり、その歴史は内子の歴史とともに幾つかの曲折を経ている。


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内子は県庁のある松山市より約40キロ南西にあり、総面積の77%を山林が占める山あいの町である。いくつもの河川と街道が集まっており、人と物が往来する要衝として古くから栄えてきた。内子は紙の原料となる楮(こうぞ)や三椏(みつまた)の産地であったため、江戸時代中期には和紙の生産販売で栄え、明治時代のなかばからは櫨(はぜ)(ウルシ科の落葉高木)を原料とした木蝋(もくろう)を製造し、海外にまで販路を伸ばし隆盛をきわめた。


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しかし、この木蝋の栄華は短く大正10年頃には消滅してしまった。原因は電灯や重油から精製されるパラフィン蝋の登場だった。その後は製糸業が盛んになり、現在では農業を基幹産業として、果物をはじめとした農産物を活用した観光事業が推進されている。

また、昭和50年代に始まった町並み保存運動が功を奏し、昭和57年には木蝋で財をなした人々の屋敷が立ち並ぶ地区が、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。また、その後の地道な修復・修景作業によって景観は見事に改善し、今では年間120万人以上の観光客が訪れる一大観光地となっている。


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『りんすけ』の御主人が修業先の松山から内子に戻ったのは、観光客の数が40万人を超えた平成6年のことだった。一流ホテルの京懐石のお店に6年間勤めた御主人は、料亭『魚林』を継ぐために帰郷した。先代は数年前に亡くなっており、女将として母親が後を守っていた。

もともと『魚林』は食堂として昼間も営業していたが、店の前にあったバス停や近くにあった鉄道の駅が廃止されてしまったことで客足が遠のき、長年にわたって夜の料亭のみの営業になっていたという。

ところが、近年になって内子を訪れる観光客が増えたことで食事処が不足し、ご主人は役場から依頼を受けて『りんすけ』を開店することにした。初めこそ少なかったものの、徐々にお客の数は増え、今では看板メニューの「鯛めし」が評判を呼ぶようになっている。
 

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「鯛めし」は、熱いご飯の上に鯛の刺身を敷き詰め、その上に卵黄と刻んだシソを載せ、さらにダシをかけたものである。別の小皿には粗くすった白胡麻と細切りの海苔、わさびが薬味として添えられている。はじめに刺身とご飯をいただくと、刺身はほどよい柔らかさでダシとの相性も良く、魚の旨味が引き立っていた。

次は薬味の胡麻と海苔を載せて、フルフルッと卵黄を崩してあれもこれも箸でかき混ぜた。すると見た目の品はすっかり失われたが、ひどく美味しそうになった。あれこれを一緒に口に運ぶと、シソと胡麻の風味が口の中にひろがり、トロッとした口当たりが心地良く、たまらずに食べ進んでしまった。ただし、「一気に」ではなく。


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この「鯛めし」には小鉢と味噌汁と漬物がついており、特に小鉢に盛られた鯛のあら煮は、同じ鯛でもずっと味わいが深く、一緒に煮込まれた牛蒡もとても美味しかった。ほんのりと甘く感じた味噌汁にも、すっきりとした漬物の味にも品があり、時折どんぶりから離れる喜びを噛みしめつつ箸を置いた。

この「鯛めし」の調理法は、御主人が修業先の先輩から教わったもので、南予(なんよ)と呼ばれる愛媛県南部の郷土料理だという。しかし、周囲を山に囲まれた内子で、なぜ魚料理なのだろうと思いご主人に聞いてみると、鯛を仕入れている八幡浜までは車で西に20分ほどの距離なのだと教えてくれた。盆地とはいえ、内子は山々を挟んで海がとても近い地域なのだ。

さらに話を聞くと、そもそも『魚林』の創業者である林助さんが、明治28年に内子で始めたのが「魚市場」だったというエピソードが出てきた。『魚林』のそばで魚屋を営んでいる『かつ盛鮮魚店』の創業者と組んで、内子から徒歩で北上し、石畳という地区から黒山の峠を越えて瀬戸内海に出て魚を仕入れていたという。標高730メートルほどの山であれば、「越えて行こう」という感覚が当時の人にはあったということだろう。
 

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御主人に一番大切にしていることを聞いてみると、「なんでしょうね」と間をとった後、「材料かな、同じものでも良いものを使いたい。地元の良いものを」と一息に話してくれた。実はお店で出すものは、お婆ちゃんが作った野菜やお母さんがつけた漬物など自家製の物が多いという。もちろん無農薬、無添加。それだけでは賄えないことがあっても、素材はなるべく地元の安心できる物を使っているという。

『りんすけ』も『魚林』も、今は御主人が一人で調理しているという。「向いてるんじゃないですかね。食事作るのは好きなんですね。あんまり人としゃべるのは苦手なんです」と御主人は最後にこぼした。一つ年上の相手を前に僕の緊張が緩むのと同じくらいのタイミングだった。


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内子の町を歩くと、昔ながらの町並みが奇跡的に「残っている」ように感じてしまう。しかし、いろいろな話を聞くなかで、内子の町並みは、そこに暮らす人々が地元の自然や文化、歴史の価値を理解し、熱意をもって「残そうとした」からこそ、今の姿があるのだということ。また、時に大胆な改修をおこなうことで“内子らしさ”を新たに生み出しているということ。そして、そういったことが地域の方々の協力によって実現し続けているところが内子の奇跡的なところなのだということが分かってきた。

100年以上の歴史をもつ『りんすけ』や『魚林』にしても、実は先代から受け継いだ献立はないという。理由は先代と一緒に働く機会がなかったからだ。現在のお店の味は、当代の御主人がかつて食べた家庭の味であり、自らの経験を通じて会得した味だという。お店は御主人が継ぐことで残り、お店の味は新たに生まれ変わったということになる。同様に内子の町も若い後継者によって、「新たに残す」取り組みが進んでいるという。次に訪れるとき、内子の白い壁の連なりは、また違って見えるかもしれない。
(『翼の王国』2007年10月号114-117頁に掲載)



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