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Daisuke Bundo

Daisuke Bundo

分藤大翼
アフリカの熱帯雨林でBaka族の調査研究と記録映画の制作をおこなっています。
長野県松本市在住。

 

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jo joko (1)


【映像作品『jo joko』の制作メモ】

私がBakaの人たちに魅せられるのは、彼・彼女たちの「食べ方」を「正しい」と感じるからだと思う。

そして、彼・彼女たちに学びながら、自分も「正しく食べなければならない」という思いを強くしている。


jo joko』という作品で、Bakaの人たちの《食》を描いた背景には、ジャック・デリダという哲学者の言葉がある。

道徳的な問いは、食べなければならないのは、あるいは食べてはならないのはこれであってあれではない、生物か非生物か、人間か動物かということではない。かつて一度たりとそうであったことはない。そうではなく、いずれにせよとにかく食べねばならない〔il faut bien manger〕以上、そしてそれが〈正しい=快適な〉〔bien〕ことであり、〈よい=適切な=美味しい〉〔bon〕ことであり、〈善〉〔le bien〕にはこれ以外の定義はない以上、問題は、いかに正しく(善く=適切に=快適に=美味しく)食べるべきか〔Comment faut-il bien manger〕ということになる。

単に〈私〉にとってだけ栄養豊かであってはならない。一人の〈私〉にとってだけそうであるなら、そのとき〈私〉は間違った食べ方をしていることになる。

「正しく食べなければならない」が第一に意味することは、自己のうちに〈取ること〉、自己のうちに〈包摂=理解すること〉ではなく、〈学ぶこと〉、食物を〈与えること〉、〈他者に食物を与えることを学ぶこと〉なのだ。けっして自分だけで食べないこと、これが「正しく食べなければならない」の規則だ。それは無限の歓待の掟だ。そしてあらゆる差異、決裂、戦争(宗教戦争と言ってもいい)に賭けられているのは、この「正しく食べる」ことなのだ。

ジャック・デリダ「「正しく食べなければならない」あるいは主体の計算ジャン=リュック・ナンシーとの対話」,ジャン=リュック・ナンシー編『主体の後に誰が来るのか?』,現代企画室,1996年,177頁。


これらの言葉は「正しい」と思う。哲学的にどうかは分からないけれど、Bakaの人たちはそのように食べている=生きているし、その食べ方=生き方は少しずつ「間違った」方に進みつつあることを目の当たりにしているから。

jo joko』というタイトルの、jo(ジョ)はBaka語で「食べ物」、joko(ジョコ)はなんであれ「良い」ことを意味する。このjokoという言葉には、善い=適切な=快適な=美味しい、つまり「正しい」という意味が含まれている。だから、『jo joko』というBaka語のタイトルは、強いて訳せば『正しい食事』となる。『よい食事』というタイトルは候補ではあったけれど、やはり『jo joko』とした。


「正しく食べられる」社会を作る一助になれば、という思いを込めて。



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