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Daisuke Bundo

Daisuke Bundo

分藤大翼
アフリカの熱帯雨林でBaka族の調査研究と記録映画の制作をおこなっています。
長野県松本市在住。

 

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学校を建てた理由

「私が、ピグミーの森に学校を建てた理由。」
『ソトコト』2010年3月号: 38-41頁に掲載)


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(1999年、当時運営されていた学校の授業風景。)


壁塗り

ほがらかな歌声が笑い声や叫び声になって、いたるところではじけていた。
水でねった土塊が宙を舞い、そこらじゅうに泥が飛び散っていた。女たちの足元があやしいのは、地面がぬかるんでいるせいではなかった。皆すっかり酔っぱらっていた。雨上がりの少し冷えた日に、壁塗りは決行された。学校建設のクライマックスとなった、この作業には集落のほとんどの女性が参加した。


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バカ(Baka)という人たち

僕が学校の建設に立ち会ったのはアフリカの森の中。カメルーン共和国の東南部に位置する熱帯雨林でのことだった。カメルーンといえば、サッカーのワールドカップで日本代表と対戦する、あの国である。世界中のスタジアムで活躍するサッカー選手を輩出している国には、ジャングルで狩猟採集生活をしている人たちもいる。彼らはバカ(Baka)という民族で、小柄なことから「ピグミー(小さい人)」とも呼ばれる人たちだ。


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出会い

僕がそんなところに行くことになったのは、ほぼ偶然だった。学生のころに環境問題に関心を持ち、自然と人との関わりについて学びたくて大学院に進学した。その時、受け入れてくれた大学院が、アフリカの研究を専門とする大学院だった。こうして、入学した年の秋には、僕はアフリカの森の中にいた。


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それから

それから13年の月日が流れた。その間、僕と集落の人々との関係は微妙に揺れ動いてきた。とくにここ数年は、10年以上も前から日本人が来ているのに、集落には学校や病院の一つも建っていないと言われるようになっていた。これは僕を受け入れてくれている集落の人々というよりは、周辺の他の民族の人々が口にする言葉だった。それでも、「集落の人々のために何もしていない」と言われることは、とても辛いことだった。


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転機

昨年の7月、9回目の渡航を前に、僕は大学に職を得ることになった。それまでにお世話になったたくさんの人たちのなかでも、集落の人々に対する感謝の気持ちは格別に強かった。恩返しをしたいと思い、何をすればよいのか考える日々が始まった。付き合いが長く、人々の性分や習慣が分かっているために、かえって決めるのが難しかった。

病院は医師の手配や医薬品の取り扱いなど、手に負えないことがあまりに多い。それに対して学校は、2004年までキリスト教系の団体が運営する学校があったため馴染みがあり、僕たちの手でなんとかできるかもしれないと思った。学校建設を仕事にして賃金を払うようにすれば、多くの人にお金がゆきわたるし、多くの人が望む学校が建つ。これはいいのではないかと思い、なけなしの貯金をおろして持って行くことにした。


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学校は必要なのか?

集落にたどりつき人々と暮らし始めると迷いが生じた。本当に学校は必要なのだろうか?彼らを見ていると、生きていることが過不足のない学びの過程になっている。狩猟採集をはじめ、森で生きる術はみな自然に身につけている。それに対して、学校教育は彼らの文化にそぐわない面をいくつも持っている。誰かの話を一方的に聞かされるということ。みんなで同じことをさせられるということ。そのなかで優劣を競うようなこと。彼らには各々が思い思いに振る舞いながら、ゆるやかなまとまりをもって生きてきた長い歴史がある。むしろ学校教育がないことによって、彼らの社会は維持されてきたように思えるのである。

ただ、この認識を越える事態が進行していることも分かっていた。森林の伐採、鉱物資源の採掘、狩猟活動の規制など、バカの人々は外から押し寄せる力に対処しなければならなくなっているのである。85キロほど離れた町の周辺では、バカの人々が連帯し協同組織をつくって自分たちの権利を守る活動を行っている。組織の代表に話を聞いたところ、他の集落も話し合いに参加できる人がいれば、組織に加わることができるとのことだった。そのような話し合いに参加できそうな人は、僕の集落にも何人かいる。そして、それらの人々は、みな教育を受けた経験をもっている。これらのことを踏まえると、将来のことを考えれば、学校教育は必要だといわざるを得ない・・・。

思い切って集落の人々に学校建設の是非を相談してみた。すると、はっきりと「必要だ」という答えが返ってきた。そういうことなら、やってみようと思った。


建設の過程

2009年8月20日、建設場所が決まると40人近い女たちが生い茂った草木を刈り払い、男たちは建材を求めて森に入った。校舎を建てるといっても、彼らが普段住んでいる家の大きなものを作るということで、必要な物資は全て周辺の森から調達することになった。


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作業は朝から昼過ぎまで毎日行われた。この間、作業について、また作業の分担について議論したり、教材や文房具の買い出しをお願いしたり、酒やたばこをねだられたりと、うんざりするほど慌ただしかった。学校を建てているのは僕のためなのか、彼らのためなのかよく分からなくなることもあった。


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(このボードを使って公用語のフランス語と算数を習得する。彼らの社会には、もともと文字も数字もない。)


そして8月25日、55人の女性が壁を塗り、30人の男性が屋根を葺いて学校は建ち上がった。やれば6日でできてしまった。


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校舎が建ち、日々の支払いを終えてみると、もういくらも残金がないことに気が付いた。教師に払うお金を確保すると、机と椅子に出すお金はなかった。そのことを告げると、男たちは「なんとかしよう」と沈んだ調子で言った。数日後、数人のおじさんたちが机と椅子を設置した。木を切り倒し、叩き割った板で作られた机と椅子は、デコボコでゆがんでいて決して使いやすくはなさそうだった。けれども、彼らが子どもたちのために無償で手がけた机と椅子は、彼らの学校にとてもふさわしく、人気のない校舎で僕はあっちの椅子こっちの机と何度も感触を確かめた。


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それから

僕が集落を去る9月3日になっても、彼らが呼び寄せるといっていた教師は来なかった。僕は教師のお金を託して集落を後にすることになった。子供たちが学ぶ姿を見ることはできなかったが、それは彼らが見てくれればよいという気になっていた。

帰国後しばらくして携帯電話に連絡が入った。集落の事情に通じている人からの国際電話だった。「学校は始まっている」。駅の騒音のなか、その言葉は聞き取れた。その後は連絡が途絶えてしまっている。

ともあれ、学校は始まった。小さく粗末なものだけれど、僕たちの身の丈にあった学校ができたことを素直に嬉しく思っている。立派でないことは実に気楽で僕たちらしい。学校を建てる過程で僕が経験したことは、自分と彼らが分かちがたい関係になってゆくなかで、何かを分かちあうこと。その何かは信頼や希望といっていいかもしれない。それがあればうまくいくというものではないけれど、それがあればやり直せるのではないかと思う。ダメだったらやり直す。彼らのしなやかでたくましい生き方を信じて、僕はこれからも彼らとともに試行錯誤を重ねてゆきたいと思っている。




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カメルーン映画紹介(1)

アフリカの光を受けとめるために -映画監督シリル・マッソ氏の紹介をつうじて- (『アフリカNOW』2006年75号:16-21頁に掲載)

■はじめに
 四隅が擦り切れた緑色のパスポート。出入国をしめす数多くのスタンプからは、持ち主が国際的に活躍していることが見てとれる。身長182㎝。若々しく精悍な面立ちの顔写真からは、映画制作を学ぶためにフランスへ渡った当時の意気込みが感じられる。シリル・マッソ(Cyrille Masso)。カメルーンを代表する映画監督・プロデューサーに成長した彼は、今では恰幅が良く、少しふっくらとした顔とあいまって大仏様のようにも見える。表情も穏やかで、少し高い声は彼自身が言うように女性的ですらある。よく話し、よく笑う。2006年11月8日に初来日を果たし、一週間にわたってシンポジウムや上映会に参加した。それぞれの場で、彼は自分の作品について、また近年のアフリカ、カメルーンの映画制作の状況について精力的に語った。本稿では、マッソ氏の来日の経緯や、作品を紹介するために筆者が主催した上映会について、そして彼の作品や語りに映し出され、私たちに投げかけられた事柄について紹介する。


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■監督の経歴
 1971年、カメルーン共和国の首都ヤウンデに生まれたマッソ氏は、貿易関係の仕事をしていた父のもと裕福な家庭に育った。映画を見る機会も多く、チャールズ・チャップリンの作品やハリウッド映画、カンフー映画などをよく見ていたという。映画の制作を夢見るようになったのは11歳の頃。身近にあるビニールの袋に絵を描き懐中電灯で照らして、部屋の壁に映る影を見ながら活弁遊びをしていたという。また高校時代には、映画サークルを作って仲間と映画談義にふけっていた。1993年、大学入学資格を取得しヤウンデ大学の人文学部に入学。歴史学を専攻していたが、2年生のころ大学のストライキや父親が亡くなるという出来事が重なり、またなによりも映画の制作を学ぶために自主退学する。その後、ヤウンデにあるラジオやテレビ番組の制作会社・学校などで修練を積みながら、本格的に学ぶために留学の申請を繰り返した。転機となったのは、1998年にエリート校として世界的に有名なフランス国立高等映画学院(La fémis, école nationale supérieure des métiers de l'image et du son)に入学を認められたことだった。奨学金を得て約一年半パリに滞在し映画漬けの日々を送る。修了後、ヨーロッパで仕事を続ける道もあったが、カメルーンに帰る道を選択する。帰国後、1999年にプロダクション「MALO PICTURES」をヤウンデに設立。国内外からの依頼をうけて制作を開始する。2001年に自主制作したドキュメンタリー映画『ガラスの値段』が世界の数多くの映画祭で高く評価される。そして今年、構想から10年をかけた長編劇映画の処女作『告白』を完成させた。


■招聘の経緯
 マッソ氏を招聘した経緯について述べるには、筆者自身のことについて少し記す必要がある。筆者は文化人類学を専攻する研究者として、1996年よりカメルーン共和国東部州の熱帯雨林地域で狩猟採集民バカ(Baka)の調査・研究をおこなっている。また、2002年より調査集落の人々を対象にドキュメンタリー映画の制作をおこなっている。現在バカの人々が暮らす熱帯雨林は、一方で木材伐採や鉱物の採掘が、他方で森を守るための国立公園化が進んでいる。前者はバカの人々の生活環境を破壊しており、後者は狩猟をはじめとする生活を制限している。このような事態が進行すれば、バカの人々は従来の生活を続けることが難しくなる。筆者は森に生きる人々の現状を外の世界に知らせる役割を担ってゆきたいと思っている。また、今後のバカの人々の処遇は、メディアにおける扱いにも大きく左右されると考えられる。そのため、カメルーンのメディア関係者、とりわけ映像作家と連携する必要を筆者は強く感じている。筆者のような者は、政情の悪化などの理由であえなく入国できなくなってしまう。今後数十年に渡って協働できる仲間が、是非ともカメルーンの国内に必要なのである。そのような思いからインターネット上で若手の映像作家の情報を調べるようになり、その過程で浮かび上がってきたのがマッソ氏であった。カメルーンを拠点にして国内外で活躍している彼のことは、いくつもの記事として紹介されていた。2006年2月20日、「From Japan」という件名で自己紹介の電子メールを送ったところ、2日後に「Sun shine from Cameroun」という件名で好意的な返事が返ってきた。しかし、この時点では「カメルーンで会いましょう」という話にとどまっていた。事態が展開するのは4月に入ってからのことである。
 文部科学省の事業「21世紀COEプログラム」に採択されている京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科と京都大学東南アジア研究所が11月に国際シンポジウムを主催することになり、その一部門として海外から映像人類学者や映像作家を招聘して作品の上映と討議をおこなうという計画がもちあがった。そして、その部門の担当者からアフリカの映像作家について相談があり、マッソ氏の名前を挙げたところ、筆者が招聘を担当することになったのである。渡航費と滞在費をあわせて30万円を越える助成金と、ビザの取得にかかる書類作成の協力が得られることになって、はじめて招聘は実現に向けて動き出した。そして、6月末に作品のDVDを送ってもらうことで、シンポジウムとは別に自主企画で上映会を開催することを考えはじめた。
 送ってもらった作品は、インターネット上で調べた中で国際的な評価が最も高い『ガラスの値段』(原題:Au Prix du Verre)というドキュメンタリー作品と、最新作で現在プロモーション中の『告白』(原題:Confidences)というフィクション作品だった。シンポジウムでは作品の内容や時間の都合などから『ガラスの値段』を上映することをあらかじめ決めていた。しかし、両作品を視聴したところ、いずれも多くの方に見てもらう価値がある作品だと思えた。
 第一の理由は、日本で紹介されるアフリカは、大自然とそこに生きる人々、あるいは紛争や飢餓、病などで死にゆく人々の姿がほとんどであるのに対して、マッソ氏の作品はいずれも「アフリカの都市に生きる人々の姿」を描いているということであった。第二の理由は、その作品がアフリカに生まれ育ち、現在もアフリカに暮らしている作家によって制作されているということであった。近年アフリカを対象とした映画やテレビ番組が上映・放映される機会が増えているが、それらは日本や欧米の作家や制作会社によって作られているものがほとんどである。また、アフリカ出身の作家であっても主にヨーロッパに活動の拠点を置いている作家が多い。そのような状況を踏まえれば、アフリカに拠点を置いてアフリカの人々を描いているマッソ氏の作品は、それだけでも貴重であるといえる。また作品中にはアフリカを内側から見据えていると感じられる映像が随所にあり、外側から覗き込むような映像に慣らされている目にはとても新鮮に映った。ほとんど知られていないアフリカの姿が、そこにはあった。上映会を企画した第三の理由は、なによりも監督とともに作品について話ができるということであった。筆者自身、作品を視聴することで監督に聞きたいことをたくさん抱え込むことになった。そして、作品を見て思ったこと感じたことについて、多くの方々とともに監督を囲んで話し合いたいという思いが高まった。もちろんマッソ氏も多くの人に見てもらうことを望んでおり、感想を聞きたがっていた。映画をきっかけにして現代のアフリカについて、また同時代に生きる私たちが抱える問題や可能性について考えることができるのではないかと思った。
 上映会を開催する。その思いは多くの方々に支えられて、11月11日に京都で、14日に東京で実現した。ともに60名を越える観客とともに作品を視聴し、語り合うことができた。御協力いただいたアンケートには、有意義な会であったことが様々に書きとめられていた。上映も対話も既に過去の出来事となってしまったが、その場に居合わせることができなかった方のために、また未来の機会に向けて、上映した2作品について、監督から聞いた話もあわせて紹介したいと思う。


■『ガラスの値段』について
 ドキュメンタリー作品『ガラスの値段』は24分の短編である。ヤウンデ郊外のゴミの不法投棄場で、ガラスの破片を拾って回収業者に売るという仕事をしている女性たちの姿が描かれている。劣悪な労働環境で、仲買人や偽の土地所有者に搾取されながらも、ひたむきに働き果敢に取引をする女性たちを描く作品は、都市に生きる人々の生活の一端を鮮やかに映し出している。

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 この映画の制作は、フランスでの映画制作の研修を終えて1999年にカメルーンに帰国したマッソ氏が、町中で一人の女性と出会ったことから始まった。その女性はゴミの投棄場で働いていた。その事実にショックを受けたマッソ氏は、その女性が属するグループを対象に映画を作ることを決意し、女性たちのもとに通い始める。しかし、初めの3ヶ月は制作の趣旨を説明するものの撮影はさせてもらえなかったという。そのうちお金を払うのであれば撮ってもよいといわれ、グループの口座に少額ずつ支払うことで撮影が始まった。5ヶ月を過ぎた頃、一人の女性が本当のことを語りはじめた。子どものこと、夫のこと、仕事のこと。それまでは「何も問題はない、話すことはない」といっていた女性たちが、苦しい境遇について口々に語りはじめた。後に完成する作品は、この女性たちの語りによって骨格を与えられることになる。「信頼関係が生まれた結果、カメラにではなく、私に向かって話してくれた。辛抱強く関わりを持ち続けたおかげだった」とマッソ氏は当時を振り返る。それまでは撮影はしていたものの、作品のテーマは定まっていなかったという。しかし、この頃から「妻であり、友人であり、同胞である彼女たちの生活」を描きたいと強く思うようになったという。それから18ヶ月間、撮影は断続的におこなわれた。

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 2001年、撮りためた10時間ほどの映像素材をもとに編集作業が始まった。一年間の困難な作業の過程で、初めは52分、次に30分、そして最終的に24分の作品になった。編集の過程でカットしたシーンの中には、亡くなった子どもを埋葬するシーンや、ある女性がガラスで大きな傷を負ってしまうシーンもあったという。作品の中でマッソ氏は女性たちが置かれている現状を「語り」によって明らかにするとともに、「映像」としては悲惨な光景よりも、力強く働く女性たちの姿を多く取り上げている。そうすることによって、都市に生きる人々の日常を描き出そうとしたのである。
筆者が最も感心し、またマッソ氏が作品の精神が表れていると語ったのは冒頭のシーンである。ヤウンデ郊外に残る熱帯林が映し出され、鳥の鳴き声とバラフォン(木琴)の穏やかで陽気な音楽が流れる。次に音楽はそのままにゴミの山々と、その傍らにガラスの破片が入った大きな白い袋が整然と積まれている光景が映し出される。貧しい女性たちがそこで働いているというナレーションが入り、続々と集まってくる女性たちと、彼女たちが一日の始まりを祝うかのように抱き合って挨拶をかわすシーンが続く。この朝の情景は、これから始まる過酷な労働を際だたせるというよりは、働くことに喜びを見出している人々の姿を率直に描き出している。これは、マッソ氏が彼女たちの「生きる力」に対する共感と敬意を作品のモチーフとしていることの表れである。そのために、悲惨な現状を描くことや、それを告発することだけをモチーフとする作品では削除されるようなシーンが、堂々と冒頭に据えられているのである。 

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 この作品は、当初カメルーン国内で上映される見込みはなく、制作費も全て自費でまかなったという。国外の数々の映画祭で高く評価されたことで、国内でも認められるようになり、今年になってカメルーン国営放送でもテレビ放映されたという。この作品には女性たちの置かれている状況を改善するという狙いも込められていたが、作品中に出てきたゴミの投棄場は、作品がカメルーン国内で認められるよりも前に、NGOや政府当局によって2004年に閉鎖されることになった。問題を封じ込めようとするこの動きは、むろん問題の解決にはなっていない。女性たちは職を失ったのである。のちに女性たちは、ある者は主婦となり、ある者は転職を模索しているという。マッソ氏は今なお4、5名の女性とは連絡をとっており、彼女たちのグループに転職の資金を提供する試みもおこなっている。しかし、グループ内の年長者と年少者の間に確執があったり、資金を使い込んでしまう者がでたりと、支援にも難しい問題があるという。
 作品の原題であるAu Prix du Verreという言葉には、「ガラスと引き替えに」という意味がある。撮影を妨害されたり、機材を盗まれたり、誤って投獄されたりといった、マッソ氏が制作の過程で身に受けた代償や、女性たちがゴミの不法投棄場の内と外で何を得て何を失っているのかという問題は未解決のままである。『ガラスの値段』は、そのようなことを考えるきっかけを与えてくれる作品なのである。


■『告白』について
 今年完成したばかりの『告白』は、マッソ氏の長編劇映画デビュー作である。カメルーン文化省やフランス外務省(Le Fonds Images Afrique)、スウェーデンのイェーテボリ国際映画祭などから資金を得て本格的に制作された作品である。10年も前から構想し6度脚本を書き直して制作に臨んだという。高品位のデジタルビデオHDCAMを使って制作されたアフリカで2番目の作品でもあり、脚本の執筆、役者の演出、カメラワークの指示など、フランスのエリート映画学校で学んだマッソ氏の面目躍如たる作品となっている。撮影後の作業の一部はフランスでもおこなっているが、撮影は全てカメルーンの首都ヤウンデでおこなわれている。「都市に生きる若者と麻薬の問題」が主要なテーマとなっており、若者の生活を内側から描いた稀な作品として既に高い評価を受けている。

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 制作の着想を得た1997年、当時マッソ氏は若者の生活を向上させるための開発グループと仕事をしていた。そのころ取り上げられていた若者の問題は主にHIV/AIDSのことだった。そのような中、ヤウンデの中央病院で一人の麻薬中毒患者の青年に出会い、その青年から若者を取り巻く麻薬の実態を教えられることになる。青年の話はマッソ氏が高校生の頃、学校にいた不良グループの生活ぶりを想起させるものだった。そこで、青年の話と高校時代の記憶を重ね合わせることで脚本の構想を練り上げていった。今日でもカメルーン社会では、麻薬の問題は「自分とは関係ないこと」として、一般にはほとんど話題にならないという。つまり、麻薬の問題は実質的にタブーになっているという。しかし、麻薬が蔓延している状況については厚生省の報告書も出ており、マッソ氏も警察に同行し麻薬の取引について取材を重ねる中で、事態の深刻さに改めて気がついたという。そして、その実態を明らかにし、若者たちに麻薬に手を出さないように呼びかける映画を作ることにしたのである。
 また、若者が麻薬の取引に巻き込まれてゆく背景として家庭の問題があることも訴えたいことの一つだったという。そのため、作品中の主要な登場人物である3人の高校生には、それぞれに大きく異なる家庭環境が設定されている。マッソ氏はそれらの家族の姿を描くことでカメルーン社会の縮図を提示しようとしたという。まず主人公のモトは両親と妹がいる貧しい家庭の青年である。そして、彼のまずしさに付け込んで麻薬の世界に引き入れるアナニという人物は、幼い頃に両親に捨てられ、生きるために麻薬の世界に入った青年である。そしてモトの恋人であるリタは家政婦のいる裕福な家庭の子女である。物語はアナニが麻薬の世界で命をおとし、モトがリタの助けによって命拾いをし、麻薬に手を出した顛末をかくまわれた教会で告白するという筋になっている。
 マッソ氏は境遇の異なる3者を様々な意味を込めて描いている。例えば、貧しい国と悪しき協力関係を結ぼうとする国があるということ。豊かな国が貧しい国を助ける、立ち直るチャンスを与える必要があるということ。間違いを犯した者も、自らの非を認め告白すれば、またそれを聞き入れてくれるような信頼できる相手がいれば更正は可能であるということなどである。「主人公のモトはアフリカの若者の象徴です。作品を見る若者たちに、絶望的な状況にあっても希望を持たなければいけないということを訴えたい」とマッソ氏は語った。

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 物語の中で裕福な家庭にいるリタがヨーロッパへの留学を両親に勧められ、それを断るという場面がある。このシーンにはカメルーンにとどまって映画制作を続けているマッソ氏自身の思いが込められているという。「カメルーン社会を外からではなく内から、自分たちの力で変えてゆきたい」、作品の原題であるConfidencesに複数のsを付けた理由は、この作品は自分自身の「告白」の物語でもあるからだとマッソ氏は笑顔で語った。作品は既にカメルーン国内の主要な都市にあるフランスの文化機関で上映され多くの観客に支持されているという。「映画を見た多くの若者たちは、映画のなかに自分を、自分が生きている社会を認めたのだ」とマッソ氏はカメルーンの人々に作品を見てもらえた喜びを語った。ペダゴジック(教育的)な作品であることをマッソ氏はためらいなく肯定している。『告白』は映画の力を信じる作家の熱意と、その力を必要としているアフリカの人々の思いが感じられる作品なのである。

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■カメルーン映画産業の現状
 上述した作品もカメルーンの映画館で上映される可能性は低いという。そもそも映画館の数が主要な3つの都市に一つずつしかなく、通常上映されているのはアメリカか同じアフリカでもナイジェリアの映画だという。マッソ氏はカメルーンの映画産業が盛んになることを願っており、資金を集めて新たなスタッフの養成や新人の作家に制作の機会を与えようとしている。「1980年代末の経済危機からカメルーン政府は橋や病院などのインフラにはお金を出すが文化にはお金を出さなくなった。作家を支援すれば社会全体のメンタリティを向上させることができるのに。映画はサッカーよりも文化の面で貢献するはずだ」とマッソ氏は語った。そして、近年カメルーン経済は持ち直しているので可能性はあると付け加えた。
 カメルーン映画産業の現状について聞いたところ、近年のデジタル化にともなう機材の低価格化は革命的だといい、『告白』を制作できたのもデジタル・ビデオのおかげであり、映画の制作・配給・上映の状況はアフリカでもまったく新しい段階に入っていると述べた。そして、デジタル・ビデオがなければ第三世界で活動する作家は、日本やアメリカ、フランスの作家とどのように競えばよいのかと言った上で、「アフリカには固有の文化がある。画像の質に問題がなくなった今、インターネットを使えばどこにでも作品を送り、見せることができる。もはや欠けているものはなにもない」と力強く語った。


■アフリカの映画作家を支援するために
 しかし、彼のような作家の作品も実際には、ヨーロッパの映画祭で上映されるにとどまっており、アジア、日本で上映される機会は稀である。市場と言語の事情でアフリカの作家にとってアジア地域は魅力に乏しいのかもしれない。けれども、今回のように招聘すれば来てくれるし、作品の上映にも積極的に協力してくれるケースもある。やはり、こちら側の働きかけにかかっているということだ。
 では、マッソ氏のような作家の作品を日本で上映する、また創作を支援するためにはどうすればよいのだろうか。実はこの点においても、映像機材のデジタル化は大きな効果をもたらしている。海を越えてフィルムをやり取りしていた時代とは手間もコストも格段に軽減されているのである。今回筆者が開催した上映会の場合、先に述べたようにインターネット上で作家を見つけ出し、電子メールで連絡をとって、DVDを送ってもらうことから始まった。次に上映の質を上げるために、MiniDVテープにダビングした作品を送ってもらい、業者に依頼してPALからNTSCに方式変換した後、自宅のパソコンに取り込んで調整、字幕の作成をおこなった。上映に際しても会場の視聴覚機材とminiDVテープの再生機を繋ぐだけで上映することができた。
 上映会のスタッフの確保は、はじめての企画だったためにあてがなく、また思ったように協力が得られず難航したが、インターネットを使った呼びかけや、知人のつてを頼ってお願いしたところ、多くの方に協力していただけた。東京の上映会ではマッソ氏の対談相手としてアフリカの都市文化を研究されている鈴木裕之氏(国士舘大学教授)に来ていただいた。また、大学の学部学生を中心とする団体の方々が当日のスタッフとして参加してくれた。広報も手探りの状態からはじめたが、映画関係者や経験者の方に相談してアドバイスをいただいた。インターネット、チラシ、各種報道機関への企画書の送付など、できるだけのことは試みた。諸経費がかさんだが、上映会に来て下さった方々の入場料でかなりな程度まかなうことができた。その結果、マッソ氏にも少額ながら報酬を支払うことができた。
 運営の組織や広報のネットワークを整備して、より多くの方に来ていただけるようになれば、上映会の収益金をアフリカの作家の支援にあてることができる。また、テレビ局や制作会社と交渉し、作品の放映料などを得ることができれば、さらに作家の支援になるだろう。アフリカの作家にとって、日本はなんといっても映像機材の生産国である。機材は低価格化したとはいえ、まだまだ高価な代物である。デジタル化によるアフリカの映画制作の活況を企業に伝えることによって、機材の提供を依頼することもできるのではないだろうか。また、アフリカで上映会を開催するためにはプロジェクターとスピーカーがあればよい。これも支援が可能なことの一つである。カメルーン国内での上映を強く望んでいるマッソ氏が必要なものとして挙げたものも、やはりプロジェクターだった。
 今日アフリカと日本の間では、映画を通じてパートナーシップを結ぶ未曾有のチャンスが到来している。アフリカに続々と映画作家や作品が誕生している今、できることからはじめてみれば、互いに得るものは想像を越えるに違いない。アフリカに関わる者として、映画を制作する者として、筆者はこれからも多くの方の協力を得ながら、できるだけのことを行ってゆくつもりである。

追記:
本稿で紹介した作品の上映を希望される方は御連絡ください。
分藤 大翼 bundo@shinshu-u.ac.jp



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アフリカ/映画との距離

「アフリカ/映画との距離―映画『ブラッド・ダイヤモンド』をめぐって」 (『オルタ』2007年7月号 :特集 「アフリカ―紛争ダイヤモンド」に掲載)

■『ラスト サムライ』
 実に見事に人が死ぬ。大砲が火をふき大地もろとも人びとを吹き飛ばす。炎に焼かれ逃げまどう人びとに無数の矢が降りそそぐ。鉄砲の弾に貫かれる人。刀で切り裂かれる人。おびただしい亡骸。『ラスト サムライ』の合戦シーンでは、政府の兵士であれ、それに対抗する「侍」であれ、とにかく大勢の人が死ぬ。監督のエドワード・ズウィックは撮影の前の晩に、様々な負傷のさせ方を寝ころんで考えるのだそうだ。そして、そのイメージを実現するために、たくさんのスタッフがそれぞれに技術の粋を尽くす。500名のエキストラ。ニュージーランドの丘陵地で、20分足らずのシーンを撮影するのにかけられた日数は31日。主演の俳優たちは貸し切りの豪邸からヘリコプターで現場に通ったという。総制作費300億円。筆者は、この途方もなく贅沢な作品を、迂闊にもアフリカに向かう飛行機の中で見てしまった。狭い座席の背中についている、とても小さなモニターで。それでも、全編にわたってやたらと映像が美しかった印象が残っている。物語は忘れたが、ずっと眺めていられたことは覚えている。「映画館で見なければ」と思ったものの、結局見逃してしまった。その年『ラスト サムライ』は日本で1410万人の観客を動員し、洋画の興行成績でトップに輝いた。


■映画との距離
 同じ監督の作品だということ。それが『ブラッド ダイヤモンド』を映画館に見に行った理由だった。ヒロイン役の目の色が好きだという理由もあったが、とにかくテレビで見てもつまらないだろうと思い映画館に行くことにした。少なくとも「紛争ダイヤモンド」に関わるアフリカの現状を知るために行ったわけではない。それは「侍」に関わる日本の歴史を知るために『ラスト サムライ』を見に行くようなものである。映画は映画であって、描かれている事柄に関心を持つきっかけにはなっても、その関心が映画によって満たされることはない。映画には諸々の限界があり、知るという行為には際限がないからだ。実際に『ブラッド ダイヤモンド』を通じて新たに知ったことは何もなかった。それは筆者がアフリカで調査を行なっている研究者だからというレベルの話ではない。筆者が多少詳しいのはカメルーンの熱帯雨林に暮らす人びとのことであり、映画の舞台となっているシエラレオネの内戦下に生きた人びとのことは全く知らない。それでも、今なおアフリカの各地で問題となっている、資源の密輸、紛争、難民、少年兵、民間軍事会社といった事柄には関心を持っており、少しは調べて知っている。『ブラッド ダイヤモンド』から知りうることは、その域を出ていないのである。
 しかし、それはこの映画が駄目だということでは決してない。エドワード・ズウィック監督は、アフリカの現状をほとんど知らない人に向けて『ブラッド ダイヤモンド』を作っているからだ。また、そもそもある事態について知る、知らせることが目的であれば、監督は映画よりも活字メディアの方がふさわしいと考えているようだ。監督は次のように語っている。「映画はやはり若者のものであり民衆文化なのです。多くの人は、本や新聞などを読まないし、世の中のことをよく知らない。しかし、映画を通じて観客は主人公や少年兵、難民の姿を目にすることで、アフリカの情況を生々しく思い描けるようになり、ひいては世界を変えることに寄与するようになるかもしれない」(注1)。

■『ブラッド ダイヤモンド』
 『ブラッド ダイヤモンド』は1999年、内戦下のシエラレオネが舞台となっている。反政府軍が侵攻し各地で残虐行為を繰り返し、捕らえた少年を兵士に、壮健な男をダイヤモンドの採掘に徴用している。主人公の一人である漁師も、息子は少年兵に、妻と娘は難民に、自らは鉱夫にされてしまう。そして、送り込まれた採掘場で貴重なピンク・ダイヤモンドを手に入れる。そこにダイヤを狙う傭兵あがりの密売人が現れ、さらに、紛争ダイヤモンドの真相を追う女性ジャーナリストが加わって、ダイヤの行方を巡って物語が展開する。漁師役はベナン出身のジャイモン・フンスー。密売人役はレオナルド・ディカプリオ。ジャーナリスト役はジェニファー・コネリー。『ブラッド ダイヤモンド』は、これらのハリウッド・スターによって輝かしい作品になっており、その光に魅せられて多くの観客がチケットを買い求めている。「ダイヤモンド」と「ハリウッド映画」、両者はどうもよく似ているのである。ともにポピュラー・カルチャーとして作り上げられ、人びとの欲望を生み出し、またそれによって支えられている。「ダイヤモンド」の価値を問い直す本作は、同時に「ハリウッド映画」の価値を問い直す契機をはらんでいる。監督はそのことに自覚的である。「私はこの題材を元にドキュメンタリー映画を作ることもできた。しかし、それでは誰も観てくれないんだ。もしくは、ある村に起こった少年兵の問題についての映画を作ることもできた。しかし、それでは誰も資金を出さないから、そういう作品を作ることはできないんだ」。観客の、つまり消費者の欲望や価値観にしたがって『ブラッド ダイヤモンド』は作られているのである。

■映画との距離
 仮に同じ題材でドキュメンタリー映画が作られたとしたら、両者の違いはどのようなものになっただろうか。スター俳優が登場しないことはもちろんだが、決定的な違いは「人が死ぬ」シーンがめったに登場しないということになるだろう。実際に人が殺される様子が撮影されることは稀だからである。逆に劇映画の本領が発揮されるのは「人殺し」のシーンだといえるだろう。『ブラッド ダイヤモンド』でも色めき立って見えるのは、戦闘や虐殺のシーンである。揺れ動くカメラで描かれる騒乱は臨場感たっぷりで、銃声や爆音の音響効果とあいまって、めくるめく光景に圧倒される。それは多くの観客が、本当にこのようなシーンを望んでいるのだろうかと疑いたくなるほどのものである。出来事の悲惨さに気づくために、これほど多くの人の死を目にする必要があるのだろうか。また、戦闘や虐殺に参加する少年兵の姿がリアルに描かれており、その残忍さが見る人に衝撃を与えているという。しかし、少年たちが兵士として洗脳される際、ハリウッドの暴力映画を見せられていたという話(注2)を重ね合わせると、少年兵と観客の経験には共通するところがあるように思える。また、殺し合っている彼らと、彼らを見殺しにしている観客と、果たしてどちらが残忍なのだろうか。

■アフリカとの距離
 見て良かった映画のランキングが発表されているウェブサイトがある。そこで一時期、『ブラッド ダイヤモンド』が一位を獲得していた。筆者はそれを見て複雑な思いにかられた。「見て良かった」とはどういうことなのだろうか。映画として出来が良かった、アフリカの情況について知ることができて良かったなど、観客にとって良かった理由が様々にあることは分かる。しかし、内戦を経験している人にとっては、映画化されたような事態がなければ良かったに違いない。そして、そのような事態が映画を観るような人びとによって引き起こされている(かもしれない)としたら……。『ブラッド ダイヤモンド』がアフリカを舞台とし、ダイヤモンドを対象としながら描いていることは、世界中で起こっている無闇な消費活動の連鎖であり、訴えかけようとしていることは、消費者である観客が自分の生活や価値観を見直すことである。『ブラッド ダイヤモンド』の評価は、観客のその後の生き方にかかっているといえるのではないだろうか。
 興味深いことは、アフリカで撮影を行なったスタッフが、「ブラッド・ダイヤモンド・チャリティ基金」を設立し、アフリカの人びととの交流を継続させようとしていることだ。アフリカで現地の人びとと共に過ごすことで、スタッフの意識が変わったのである。そして、他にも映画によって意識が変わった人びとがいる。ダイヤモンド業界の人びとである。ワールド・ダイヤモンド・カウンシルのウェブサイトでは、ダイヤモンドがいかに人々の生活を向上させているかという情報が公開されている。対して、アムネスティのウェブサイトでは、ダイヤモンド流通の問題点が指摘されている。このような関心や議論を喚起できるところが映画のすごいところである。振り返って、十年来アフリカに関わっている者として、自分は何をしてきたのか、これから何ができるのかを自問し、『ブラッド ダイヤモンド』の長い長いエンド・クレジットを眺めながら、筆者はしばらく立ち上がることができなかった。

(注1)エドワード・ズウィック監督のインタヴュー 
(注2)伊勢崎賢治「知られざるシエラレオネ紛争の10年」『ブラッド・ダイヤモンド』パンフレット



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映像人類学者という仕事


「生きて帰れるのだろうか」
不安を胸に訪れた、初めてのアフリカ。
でも、そこには穏やかで豊かな
暮らしがあった。

『きらり10代! ワークメッセージ』 編者 NHK「GOOD JOBプロジェクト」 2008年8月 旬報社刊

この書籍に収録された記事は、編集部の手違いにより校閲前の文章になっています。校閲後の文章は旬報社のホームページの「お知らせ」欄の正誤情報『きらり10代!ワークメッセージ』に掲載されています。こちらでPDFファイルで読めるようになっていますので、お知らせさせていただきます。



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ピグミーの森の音楽

「ピグミーの森の音楽」 (『ソトコト』2005年12月号: 44-49頁に掲載)

懐中電灯で足元を照らしながら小屋の裏にまわる。頭上をおおう黒々とした木々を見上げながら、暗闇に向かって用をたしていると、地面にはねかえる音が無数の音に吸い込まれてゆく。ひしめく音に耳を澄ますと、少しずつ音の重なりが聞き分けられるようになってくる。


DSC00003_convert ロミエの夕空


リューーーと続くやさしい音や、チッ!チッ!チッ!という金属を打ちつけるような音、ピィッ、ピィッ、ピィッという鋭い音、さらにリィリィ、フィリリリ、リッリッリーと微妙に異なる音など、夜明け前の森のサウンドスケープは、多様な虫の音によって占められている。6時をまわり空が白みはじめると、今度は鳥のさえずりが次第に森を満たしてゆく。その鳴き声はあまりに多様で精妙なため、とても書き記すことはできない。
この早朝の音は、さっきまで自分が熟睡していたのが不思議に思えるほど大きい。実際に測定をおこなった研究によると、森の音は都市で容認される騒音の限界を越えているという。また、それでも人が熟睡できる理由は、森では多くの音が複雑に変化しながら持続しており、癒しの効果をもつ高周波が多く含まれているからだという。つまり、人がうるさいと感じるのは音の量ではなく、音の質によるということだ。確かに、実感として森の音は快適で、様々な音が耳に入ってくる感覚は、深呼吸に似た心地よさがある。逆に言うと、都市の音は聞き心地が悪く、そのため無意識のうちに聴覚を萎縮させてしまっているのかもしれない。

虫の音、鳥の声に続いて、人々が活動を始めると、森のサウンドスケープは大きく変化する。放し飼いにされているニワトリがけたたましく鳴き、夜が明けると、赤ん坊のむずかる声と親のなだめる声が聞こえてくる。しばらくするとガサガサと戸を動かす音がして、ゆっくりと人々が出てくる。バキッ!ゴトゴトッという木を叩き割る音や、水を汲みに行く女たちが交わす挨拶の声が響く。多くの男たちは長いすのある場所にたむろして、火を起こし、暖をとりながら一服する。女たちは家の中で薪を組んで鍋をかけ、朝食の準備を始める。主食のプランテン・バナナ(調理用のバナナ)やキャッサバ(芋の類)をかじって朝食を終えると、女たちは大きな籠を持って出かけてゆく。そして男たちも鉈を手に森へと向かう。

この人々が、太古よりこの森で暮らす「ピグミー」と呼ばれる人々である。ピグミーという言葉は「肘から手までの長さ」という意味であり、つまり「小さい人」ということである。事実、彼らの平均身長は150cm前後である。そして、この体が小さいという特徴は、森の中で活動する上で有利だと考えられることから、ピグミーは数千年にわたって森という環境に適応してきた人々だとされている。現在でも、鍋釜や刃物などの金属製品や衣類、塩といったものの他は、彼らは生活に必要な物のほとんどを森から得ている。食料はもちろんのこと、薬草や家の建材、籠や寝床に敷く茣蓙など、日用品のほとんどを森から手に入れている。ピグミーは近年になって定住化し農耕も始めているが、かつては決まった住処をもたず、森の中を移動しながら狩猟や採集によって生活していた。今日でも彼らは、季節によって数週間から数ヶ月にわたって森の中で狩猟採集生活をしている。

森の中 エミリ


人々が森へと出かけてゆくにつれて、集落の生活音は少なくなり、かわってクォックォッ、チュンチュン、ピッピピピッピピピヒョロと何種類もの鳥の鳴き声が聞こえてくる。身の回りにはハチやアブなどの羽音が絶えず、昼間からスズムシも鳴いている。時折、集落に残っている人々の低い話し声や子供のコロコロとしたかわいい声がする。日に数台通る車のエンジン音が数百メートル先から地鳴りのように響き、あらゆる音をかき消しながら轟音を立てて走り去る。都市では当たり前の音が、森ではひどく間違った音のように聞こえる。

昼をすぎると少しずつ人々が帰ってくる。手ぶらの人、木の実やキノコ、魚やエビを手にしている人、罠にかかった動物を肩からぶら下げている人、籠いっぱいにバナナや芋を背負っている人、酔っ払った人、など様々である。そして、夕刻には集落は一様にくつろいだ雰囲気になり、男たちは煙草を吹かしながらおしゃべりに興じ、女たちも夕食の準備をしながらゆったりと過ごす。そして、子供たちも少し涼しくなった集落の中で、追いかけあったり、手製の車を転がしたりして遊ぶ。日が暮れると、また耳がしびれるほどの虫の音が地面から沸き立ってくる。そして、あちらこちらから話し声や楽しそうな笑い声が聞こえてくる。その様子からは、人の声が、とても大切なメディアでありサウンドスケープであることが分かる。また、抑揚に富んだ彼らの話し声は、時にとても音楽的に聞こえることがある。夕食後の団らんが一区切りつく頃、ポンッ!ポンッ!と少年たちが戯れに太鼓を叩きはじめる。

ピグミーに関する最も古い記録とみなされているのは、ナイルの源、「樹木の国」に住む「神の踊り子」という、紀元前2400年頃の古代エジプト王朝の記録である。既にこの頃から、ピグミーは優れて音楽的な人々と見なされていたのである。今日では、ピグミーの音楽は最も有名な民族音楽の一つとして、世界中で数十枚のレコード・CDが発売され、多くの人によって聞かれている。

ピグミーの伝統的な音楽では、旋律楽器は用いず、太鼓を中心とした打楽器を使用する。また、歌には掛け声のようなものはあるが、歌詞といえるようなものはなく、ヨーデル風の特有の裏声によって、一定の長さの旋律が繰り返し歌われる。そして、4つほどの声部が自在に変化しながら同時に歌われるポリフォニー(多声音楽)と、複数の独立したリズムが同時に刻まれ、一定の周期で合致するというポリリズムの形式を特徴としている。この技術は西洋音楽では14、15世紀にならないと実現しなかったような高度なものだという。このように、ピグミーの音楽は歌詞の意味を伝えるようなものではなく、太鼓の音や歌声を、正確にずらしながら重ね合わせ、それらの音の総体を楽しむというものである。そして、そのような音楽の技術やセンスは、練習して身につけるようなものではなく、幼い頃から歌と踊りに参加することで自然に身につき、世代を越えて受け継がれていくものなのである。

少年が叩きはじめた太鼓は、徐々に年長者へと引き継がれ、次第に強く正確なリズムで叩かれるようになってゆく。そこへ女性たちが集まってきて静かに歌いはじめる。その歌声が厚みをおびてきた頃に出かけると、近づくにつれ虫の音が太鼓の音と歌声に覆われてゆくのが分かる。そして、現場に到着し人々の間に身を置くと、女性たちの体から立ちのぼる歌声にびっしりと囲まれ、波動として響いてくる太鼓の音に全身を揺さぶられる。そして、目の前では奇妙な衣装をまとった者が踊り、その動きに応じて人々の笑い声や叫び声が上がる。このように、ピグミーの音楽は耳だけで聞くものではなく、空間の高鳴りを全身で体感するものである。時に数km先までとどろく活気は、CDなどのメディアでは、とうてい伝えられるものではない。


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ピグミーの社会では、この衣装をまとった踊り手は森の「精霊」だとされている。そして、旋律や太鼓のリズム、衣装や踊りなどは、男性が森や夢の中で精霊から教わるといわれている。つまり、新たな音楽は精霊との出会いを通じて生まれるのである。そして、あるものは残り、あるものは廃れてゆく。精霊の数は確認できているだけでも100を優に越えており、しかも一つの精霊は複数の旋律をもたらすため、これまでに生成・消滅した音楽はたいへんな数にのぼると思われる。また、この音楽をもたらす精霊は、人々を危険から守ったり、病を治したりもする。また、人は死ぬと精霊になると考えられているため、精霊は死者(先祖)とも重なってくる。そして、生者は精霊が踊る際には、そのパフォーマンスを盛り立て、精霊を守らなければならないとされている。つまり、精霊(死者)が生者を守ることと、生者が精霊(死者)を守ることが対をなしているのである。以上が精霊のもたらす音楽の成り立ちであるが、この営みが長年にわたって持続している秘訣は、実は意外なところに隠されている。

レコードやCDでピグミーの音楽を聞いていると、あたかも彼らの音楽には始まりと終わりがあり、その間は多くの者が一丸となって歌っているように聞こえる。しかし、それは制作者によって演出・編集がほどこされているためである。実際のピグミー音楽は、初めの太鼓の音から何時間もかけて人が集まる中で始まり、途中で何度も休止しながら数時間、時には夜を徹して行われ、最後は人が少なくなってきたところで終わる。その間、レコードやCDに収録されているような盛り上がりを見せるのは、せいぜい数分から数十分程度である。そして、その時ですら彼(女)らは一丸となって歌い踊っているわけではない。人々の行動を詳細に記録・分析したところ、実際に女性が歌っているのは、数時間にわたって行われる歌と踊りの2割ほどの時間でしかなく、男性が精霊の踊りを盛り立てているのは5割ほどの時間にすぎないということが明らかになった。つまり、人々は大半の時間を歌と踊り以外のことをして過ごしているのだ。それは、他の人が歌い踊っている最中であっても、お構いなしにしゃべっていたり、黙って見ていたり、あるいはどこかへ行ってしまったりしているということである。つまり、出入りは自由、どこから始めて、どこで止めてもよいというのが、彼らの音楽のやり方なのである。あくまでも自分が楽しむために参加する。そして、その事を他の人にも認めるという態度が一貫しているのである。その結果、歌や踊りが盛り上がらないことがあったとしても、それは仕方がないことだというのが彼らの心得なのである。この柔軟な態度が、歌や踊り、精霊を守らなければならないという負担を軽減し、結果的にたいへんな盛り上がりを実現したり、彼らの音楽を持続的なものにしていると考えられる。バラバラでいることで、ゆるやかなまとまりを実現する。この歌と踊りの場で顕著に見られる共生の技法は、ピグミー社会の成り立ちとも深く関わっている。

身近な自然が奏でるサウンドスケープを、音楽に取り込んでいる民族は世界中にいるという。ピグミーの場合については、実はまだよく分かっていないのだが、直感的には森のサウンドスケープとピグミーの音楽は、とてもよく似ていると思える。あるいは、長年にわたって森と共に生きてきた彼らの音楽は、人々の意識を越えて、既に森のサウンドスケープと重なり合っていると考えるべきなのかもしれない。人と森と音楽が相互に響きあう関係が実現している。それが、「ピグミーの森の音楽」なのである。


参考文献
市川光雄・佐藤弘明編 『森と人の共存世界』京都大学学術出版会 2001
大橋力   『音と文明』岩波書店 2003
山田陽一編 『自然の音・文化の音』昭和堂 2000



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